花を見る


綺麗。

数年前、ひどい病気になって、外に出られない、
目が開けられない状態で、それがやっと治り、
外を歩いたときにこの花を見た。
きちんと心と目が共振しているのがわかった。
子どものときこうやって花が見えていたなぁ、
景色が見えていたなぁと懐かしかった。

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信じること

今日は気持ちのよいお天気だった。
五月は本当によい季節。

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若松英輔さんのつぶやき、心の網にひっかかる。

「ひとは、知っているものをもう、信じることができない。ひとは、知り得ないと、本当に感じているものだけを信じることができる。だから、愛する者を知り尽そうとしてはならない。自分を、いたずらに掘り下げてもいけない。わたしは、わたしを知らない。だからわたしは、わたしを信じることができる。」

分かったような分からないような。
わたしは、自分をいたずらに掘り下げてきたなー。笑。

もう少しこの言葉は、自分に沈殿するまで
時間がかかりそうだから、静かに沈むのを待とう。

「信じることは、何かに目を閉ざすことのように感じられるかもしれない。だが、ひとたび目を閉じなくては感じられないものがあるように、信じることでしか見えてこない何かが、この世には、たしかに存在する。だから、明日を自分を、本当に信じたいと願う者には、明日も、自分も見えないままの方がよい。」

これを読んでいると、岡潔を思い出す。

疑いをおこし強く打ち消している「ある」ではなく、さやかに冴えた「ある」を大切にすること。肉体と花園。濁りと澄みやか。重さと軽やかさ。地と天。その境い目。そのけじめ。とてもとても大切なこと。岡潔のことばに救われる。心の夜明け。静かな夜明け。

 “ここにわたしの家の花園があります。花はいま一つもありませんが、目の前にみどりの花園がある、と思ってください。そうすると、これは「ある」としか思えないでしょう。感覚があって、それに判断がともなうというだけではありません。だから正確にいえば、それらに加える「ある」という」実感があるのです。つまり、存在感があるのです。
 ところで、あなたの肉体もあります。これも、いろいろなせんさくを抜きにして、いまある、としか思えないですね。それで、いちおうこれも存在感があるといえます。
 そうすると、目の前の緑の花園も存在感、あなたの肉体も存在感です。しかし、この二つの存在感は同じですか。なんだかちがいます。
 みどりの花園は、さやかに「ある」。しかし、自分の肉体はあり方がなんだか濁って「ある」。そのように思えるでしょう。もうすこしことばを加えますと、花園がある、というのは、「ある」ということに対して、疑いがおこらないのですね。
 ところが、肉体がある、というほうを仔細に見てください。「ある」ということに疑いをおこしそれをひじょうに強く打ち消して、「ある」と思うのです。
 そうなのです。この二種類の「ある」があるのです。
 さやかに冴えた「ある」と、否定を打ち消している「ある」です。
 一つは光の「ある」、もう一つは影の「ある」です。影は存在しませんが、しかし、存在するともいえる、その「ある」です。
 そのみどりの花園がある、という「ある」が冴えてくると疑いがまったくおこらない。そんなふうな「ある」です。これだけが「ある」という感じなのです。そうしますと、「あるような気がし」たらもうそれでじゅうぶんあることが信じられます。それを確かめたりしません。
 確かめるというのは、疑いをおこしてそれをより強く否定する。そうしてはじめて「ある」と思うことです。そういうあり方だけが、たしかにあることだとたいていの人は思っています。
 しかし、それは影の「ある」であってその影をとってしまえば、はじめは「あるような気がする」だけですが、それをじっとよく見ているともっとあるようになるのです。だんだんはっきりしてきて、あるという疑いをともなわない実感になるのです。 
 人と人とのつながりもそうです。真のつながりは、これを一度疑いそれをより強く否定する、という形式で、確かめたりはしません。それが心の紐帯(ちゅうたい)です。
 この「ような気がする」というのをたよりなく思って、影の「ある」を目標にしていたのでは、真・善・美どの道においても向上というものはありません。向上するほど「ような気がする」が自明な「ある」になってくるのです。疑いをおこしてそれを強く打ち消す、という形式ではけっしてそうはなっていかないのです。
 なにかいちいち文字に書き表して、それに認め印までおしてもらわなければ承知できない、そのようにしてはじめて安心するというふうなつながりでは、つながっているということの実感はけっして出てきません。
 もう一度いいますと、さきのみどりの花園があるという「ある」と自分の肉体があるという「ある」とは、ことばとしては同じですが、実はまったくちがったものです。
 ここの境めが非常に大事なところです。さやかにあるという「ある」を「ある」と思っていると軽く澄んで天となり、疑いを強く打ち消す形の「ある」を「ある」とおもっていくと重く濁って地となります。だから天地はこの線で分かれるのです。このけじめがすこしでもわかるような気がしてくれば、それがあなたの心の夜明けなのです。”

岡潔「情緒と想像」

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先週末、千葉のホキ美術館に行った。
写実派の絵ばかりがある美術館。
ずっと行ってみたかったところ。
写実の世界にじっくりと触れることは、
想像以上に面白かった。

五味さんという画家の絵で、いきなり
度肝を抜かれる。なんてことのない木立なのだが、
そのなんてことのなさが、とんでもない。
別に、特別美しい景観を切り取った訳でもない。
でも、一度は森に行ったことのある者なら、
こういう所あると思うその既視感。
それを思わせるなにか強烈なものが
そこにはあった。揺れる日だまり、
ザラザラとした木肌、乾いた雑草、
揺れる木々のこすれる音。圧倒的な質感が、
自分を襲ってくる。なんだか気持ち悪いと思った。
一番気持ち悪いのは、近くに寄って見ても、
絶対的にそれがそこにある感じなのだ。

そのあとも、息を飲むようなリアルな絵画が続く。

写真なのか絵なのか
本物なのか偽物なのか
写実なのか幻想なのか
なんだかその境が非常に曖昧になってくる。

フワフワの猫の毛、なめらかな人の髪の毛、
食器の艶、皮を剥かれたレモン、少しはげた机の木、、、

石黒賢一郎さんという画家の絵は、
そのなかでも異質だった。

真顔でこちらを見る若い女性。
確実に目が合う。見られている。
見ているというより、見られてしまう。
ずっと見ていられない。見る者を支配する力が
宿っていた。そこに生きていた。

おじいさん二人が、同じタイミングで
鑑賞していた。このお二人がすごかった。
写真をパシャパシャ撮るし、絵をベタベタ触る。笑

「お客様ー!」と注意されると、
逆ギレしたのか、狙っていたのか
「そもそも油絵とはなんなのか」との
問いを投げかけ、女性を混乱させていた。

私はなんだか、おかしくて、クスクス笑った。
このおじいちゃんは、ソクラテスか?
触りたくなるのは、ひそかに共感した。
「いやーすげーね。どうなってるんじゃろこれ!」
「こりゃー写真なんだろ、きっと!」と、
二人で決めつけていた。そこで否定されたから
「そもそも油絵とはなんぞ」だったのだ。

写実の絵の面白さは、いろいろな境界が
曖昧になり、訳が分からなくなり、
おじいちゃんたちのように真剣に混乱することだと
思った。記憶に関係しているようにも感じた。

ある意味、写真よりもリアルなのだ。
なんでなのかは、わからない。
画家たちは、どこまでをリアルに描いているのだろう。
どれくらいを想像力で塗り足しているのだろう。
そして、見る者も想像力を塗り足しているのだろうか?
リアリティーとは何だろう。
アクチュアリティーとリアリティーの
違いは何だろう。

相対的ではなく、物や人や植物たちが、
ただそこにあるという絶対性の存在の粒が
ひしめきあっていて、息が詰まりそうになる。
すべてが平等にそこにいる。

人間が物を見るとき、景色を見るとき
おそらくあんな風には見えない。
いつもあんな風に見えていたら
おそらく気が狂ってしまうだろう。

でも、そういえば、演奏するとき私は
すべての音を同時に平等に聞くというのを
しているかもしれない。細かく分解してから
統合する。その耳、その聞き方を練習から養う。
人間は本能として、都合のよいように聞いている。
道端では、本当はもっと車が煩い。
それは生きていく上では必要ないから、
ボリュームを下げている。
でも、演奏するときはそうはいかない。
全ての音を漏らさず聞かなくてはならない。
写真の画素数を上げるように、音素数を上げる。
名人ほど、砂のように細かく、聞こえている、見えている。
だから、どんなことにも反応できる。

この「一切を平等に見る、聞く。」
というのは、生きる上でも大切なのではないかと
最近感じている。よいも悪いもなく、ただ
すべてを平等に並べて見る、聞く。
そうすることで、淀まないし、すべてが
なめらかにつながっていく。

何だか、話がまとまらないが、
最近の雑感を言葉にしてみた。

明日も晴れるとよいなー。

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今日の言葉*
世界は「私」を超えたところで動いている。このことをいち早く「あきらめ」たものが、時間の主宰者になる。なんとかしようとしなくていい。自分の思うようにならなくていい。そこに「聴く耳」が開く。時間が流れ出す

(森田真生)